あおいうに個展「マゾヒズムは父殺しのはじまり」
あおいうに個展「マゾヒズムは父殺しのはじまり」
11/2-16 月火休み
15〜20時
最終日18時まで
あおいうにの「 マゾヒズム」に関する「抽象画」の展示である。
幼少期から統一教会2世として性に純潔に育てられたあおいうに。その抑圧から芽生えたものは マゾヒズムであった。しかし、それこそが「父殺し」を果たす武器なのではないだろうか。あおいうにの心理を抽象化して絵画表現する。
【ステートメント】あおいうに
異性と粘膜接触をした最古の記憶をたどると、幼稚園時代に遡る。男児にいじめられてほっぺたを噛まれたのだった。もちろん当時は苦痛に感じていた。
しかし、時を経てその苦痛は甘美な粘膜接触の思い出へとすり替わる。
後に大学生くらいまでに定着した私のマゾヒスティックな欲求は、この幼少期の思い出が一因であろう。
変態性癖と呼ばれる世の多くの性的趣向は、実は防衛機制であると言えなくはない。
およそ社会において、抑圧されていない人間はいないだろう。権力者や地位がある人物を含めて、何らかの権力を持った他者に制約を受けた経験があるはずだ。
私の場合は、旧統一教会の二世として生まれ、厳しい「純潔教育」を受けて育った。
「純潔教育」とは、旧統一教会の教祖・「真のお父様」文鮮明が選択した相手と祝福(結婚)を受けることを人生至上の喜びとする、という教えのことだ。
それまでは決して恋愛や性交渉をしてはならないし、自慰行為をしたり、ポルノも見てはならない。
そうした価値観の刷り込みをうけ、私の中に芽生えたのは、性に対する抑圧と同時に反動として抱いた性への強い興味であった。
エロティックな表現をしたり、変態的な行為をしても地獄へ堕ちることはない。そう信じたいがための強迫的な確認行為だ。
こうして私を抑圧した「純潔教育」は、かえってセクシャルな絵を多く描いたり、マゾヒスティックな欲求の衝動やその実現に帰結した。
圧倒的で絶対的な父なる存在にひれ伏すことは、もはやある種のSM行為に近い。
恋愛や性の趣向は、幼少期の人間関係、特に親との関係や家庭環境の再演だと指摘されることがある。
実際に私は幼少期に受けた抑圧から自由意志を解放する手段として、性行為において被虐・支配されることで本当の意味での自由を得ているのだ。
いくら、性的倒錯して奔放な性生活を送っても、私は私だ。「堕落」することはないだろう。
虐げられ、いわば人間以下になることで「統一原理」をはじめとしたあらゆる枠組みや柵から解放される。
それこそが私が最も自由主体でいられる過程である。
また、SMは自傷行為の役割も果たす。
心の傷をSMという形で可視化し、再確認することにより、慰めてもらっているのだ。
信頼できる相手に傷を認め、尊重し、大切にしてもらうこと。
それが私のSMの本質だ。
今回はマゾヒストとしての私の心理を抽象化して作品に昇華する。
この展示の目的は、剥き出しになった感情の吐露と、その倒錯が孕む包容力によって、抑圧に満ちた現代を生きる人々の共感を引き出すことである。
鑑賞者が各々の体験にあっただろう抑圧を直視し、そしていかなる制約もない自由意思の解放を、重ねて観てほしい。