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あおいうに個展「その傷の色はまだきまっていない___いたみが、絵の裏でかすかに息をしている。」

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あおいうに個展「その傷の色はまだきまっていない___いたみが、絵の裏でかすかに息をしている。」
2025年11月12日(水)~23日(日)
15:00~20:00(最終日18:00まで)
17日(月)、18日(火)休廊
 
2023年の個展「この未来は、あのとき選べなかったかもしれない。」(具象絵画+ナラティヴ+絵日記)では、あおいは自分の力不足を痛感したという。今回の展示はそれへのリベンジとして計画された。単に傷ついた「内面の吐露」ではなく、「治癒のため」でもなく、これらの絵は、社会、家族、カルト、エロス、ジェンダー、政治、思想、制度、人間関係――あおいの「身体」が通ってきたすべての環境下での、複雑 で微妙な蓄積からの表象だという。今回も、具象的なもの、ことを抽象的な筆致で仕上げている。

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ステートメント 画家/現代アーティスト・あおいうに

私は今回の個展にあたり、夢や幻覚と現実とを繋ぎ、橋を架けるような絵画を制作してきました。 2023年の個展「この未来は、あのとき選べなかったかもしれない。」、そして2024年の個展「マゾヒズムは父殺しの はじまり」に続く本展も、個人史的ナラティヴ(物語)とトラウマからの脱却、そしてその共有をテーマにしたシリーズ 展覧会となります。 2023年の個展(具象絵画+ナラティヴ+絵日記)では、自分の力不足を痛感しました。しかし、2024年の個展(抽 象絵画+ナラティヴ+SM)では手応えを得て、あおいうにの歴史に残る展示となったと感じています。

私は特に抽象絵画を好みますが、具象でなければ伝わらないテーマもあると考えています。そこで今回は、2023 年のリベンジとして「具象絵画」を再提示しました。 また、新しい試みとして「タイトルが絵よりも先に存在し、題名そのものに文学性を持たせること」を行いました。今 回の題名が軒並み長文であるのは、別途ステートメントは読まれにくい一方で、キャプションであれば目に留めて もらえると考えたからです。 本展は、私の記憶や夢、幻覚、身体感覚の断片を、絵画という形式を通して再提示したものです。それらを鑑賞 者のみなさまと共有し、照合したいと思っています。もちろん、全く同じ経験をしている方は少ないでしょう。

しかし 眠っている似た感情や感覚を呼び起こすことならば、きっと可能だと信じています。 ある絵は夢の記録から始まり、ある絵は実家の風景の記憶と幻覚が重なって生まれました。生々しいトラウマの痛 みを綴った絵もあれば、叶わない恋の苦しみを描いたものもあります。 しかし、これらはただの「内面の吐露」ではなく、「治癒のため」でもありません。これらの絵は、社会、家族、カル ト、エロス、ジェンダー、政治、思想、制度、人間関係――私の「身体」が通ってきたすべての環境下での、複雑 で微妙な蓄積の中にあります。 その傷口の色を塗りかえることで、居場所をつくり出す。そして再演されたエピソードが、世界との再接続の契機と なり得るのです。 私の傷はまだ、絵によって癒されたわけでも、乗り越えられたわけでもありません。けれど、確かにここにある。か すかな感触として__。

これらの絵画は、妄想であり、事実です。

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あおいうにの芸術とは
森下泰輔(現代美術家/美術評論家)
 
2023年の個展展「この未来は、あのとき選べなかったかもしれない。」(具象絵画+ナラティヴ+絵日記)では、あおいは自分の力不足を痛感したという。今回の展示はそれへのリベンジとして計画された。単に傷ついた「内面の吐露」ではなく、「治癒のため」でもなく、これらの絵は、社会、家族、カルト、エロス、ジェンダー、政治、思想、制度、人間関係――あおいの「身体」が通ってきたすべての環境下での、複雑 で微妙な蓄積からの表象だという。

だが、具象か抽象かにかかわらず、あおいうにの絵画にある筆触の癖、実はそれがあおいうに芸術のアイデンティティにかかわる肝の部分なのだが・・・・、そのザッハリッヒな絵具の物質化、に、あおいのすべてがあるわけだ。すると、その主題性や題名における文学性、社会的成長過程におけるトラウマのようなナラティーフな部分は「絵」として伝達できるのか、といえば、そうではないだろう。ただ「絵」、ともすればエントロピー増大現象次元にける定着と瞬時の筆さばきの時間軸定着性といった絵の本質と時間的物語的深層的情動とは異質なものでもある。すると、あおいのテキスト主義にこそその解説が含まれており作品世界の鑑賞領域としての言説を規定していることにもなるのだろうか。

たとえば、《夜寝ていると顔の上に子シロクマが乗っかってくる。見えない15人の気配がする。夫に「この部屋には何人いる?」と聞くが、返事は待ってもこない。》なるスクエアの作品は、たしかに白熊らしきものは描かれているが、この題名がある種の悪夢か妄想を説明しているのに対して、絵画のほうはそこまで説明的ではない。かりに「視覚言語法」により、言葉にするなら「白い犬のような熊のような得体のしれないものが、夜半に部屋で巨大化している図、筆致は荒らしい」とでもなろう。つまり題名と表象される作品とは完全にはつながっていないのである。すると、作者のメッセージは、シュールな題名と視覚的な筆致とのどちらに重きがあるのだろうと思わずにいられない。

これは近代絵画、たとえば抽象表現主義的作品であろうか。はたまた、70年代の表現主義リバイバルがポストモダン状況で起きた「ニューペインティング」に近いのか?

結果、後者であろう。かりに西欧現代絵画の定向進化論風にいうなら、あおいの作品は、フォルマリズム的解釈からは語れないものになる。美術の王道では、絵画は抽象と具象に分断されたのであって、そこからポストモダン状況の模索としてニューペインティングのような抽象的具象があらわれる。戦後間もなくの頃のいわゆる具象的表現主義絵画とニューペインティングを分かつものは、間に挟まったポップアートを通過しているかどうか、だろう。その意味ではあおい作品は明確にニューペインティングの残滓を含有してる。

では厳密にはニューペインティングとどこが違うのか?

それはシリアスで男性的なものではなく、軽いジョークすら感じさせる少女オタク風のファンシーな色遣いや要素が入り込んでいるせいだろう。

その意味では「社会、家族、カルト、エロス、ジェンダー、政治、思想、制度、人間関係――あおいの「身体」が通ってきたすべての環境下での、複雑 で微妙な蓄積からの表象」なる作者の意図は十全に表現されているのだろう。作品世界はうにそのものである。他の美術史のいずれとも参照が難しいとすれば、これはあおいうにを全否定するか、全肯定するかしかなくなる。かりにまず否定してみても、これが真正の芸術であるか否かの判断保留部分が残る。「これはあおいうにの真正の芸術である」または「芸術であるに違いない」と言い切ったところからしかうに芸術というものは語れないのではないか。そしてそれがいかほどのものであるかは、ここから続くあおいうにの生に接続されることになろう。

継続すること、それ以外あおいうに芸術が大芸術になる道はなかろう。

 

 

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