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有吉達宏集展「石」
ドローイング+アニメーション
アートラボ・アキバ
10月2日~10月14日
13:00-20:00
石に、植物に、人に、食物に、贈与されている。
作品はそれらが身体を通して現前した姿だ。
作品に沈殿しているもの、作者ですら感じ入ることが難しく。
石に沈殿しているもの、感じ入ること、やはり難しい。
自分の内に何があるか、起きているか、知るためには描くこと、それをより深く洞察すること。
果たして作品を本当に見ることができる人がいるのか?
じっと、じっと、じっと見つめる。そのものになれるように。
個展『石』によせて
有吉達宏
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“例えば、バヒネモ族の儀礼用《鉤》には、それが祖先でも鳥でも魚でもある形象がみられるのです” “ひとつの《鉤》がいろんな形象を持つってこと?” “そうです。祖先、つまり人間とわかる造形要素、鳥とわかる造形要素、そして魚とわかる造形要素が、それぞれ不完全なかたちで部分的に表されているのです” “つまり、その文脈ごとに見え方が変わるわけですね” “それだけではありません。ひとは断片を示されると、その全体を補完しながら見るわけです” “断片的情報は、そこから見えない部分、隠された部分を補完させますね” “はい、それは個別的な仮想なのですが、そこで見手によって組み立てられた全体像は、他者から示された全体像より遥かに、完璧な全体像になるという効果があります” “もっとも完璧な全体像って、カミですね” “少なくともホーリーかつホーリスティックな効果です” “でもそれは全ての情報に言えることではないでしょうか” “そうです、いわゆるシーニュと呼ばれる作用において、基本的な効果と言ってよいでしょうね” “でもですよ、そこで補完され、再現されるのだか創作されるのだかわからない全体像っていうのは、結局、その見手の経験や知識を超えないことになりませんか” “超えないからカミ的なのですね” “なんだかとても安易な効果のようにも思えるのですが” “全体像というものがそういう性格のものです” “まるで宵の刻に、薄暗がりで女性が綺麗に見えるのと変わらないですね” “完璧さを創作するという意味ではそうでしょうね” “しかし、不完全な表現が完璧さを生みだすというのは、経験知に縛られた人間にとって皮肉な逆説ですね” “ただし、経験知というものは、超えるべきものというより、変換されていくものでしょう” “それはどのように変換できるのですか?” “その経験知を〈私〉に帰している主格というものの偶有性、もしくは、述格というものの偶有性について、少し考えてみたらわかるはずです”
芸術人類学者 中島智